本記事は、筆者が主治医として関わるなかで、学び共感した価値観や人生観について記したものである。
※Bさんのインタビュー前編はこちら
表題は、新約聖書に出てくる言葉である。「何かがほしいなら、まずは自分が与えることから始めましょう。」という意味だ。他人に与えることで与えられた、Bさんの例を見てみよう。
つらいときは他人を頼れ
いかにもBさんは、問題を自分だけで抱え込むタイプの人間に見えた。不治の難病を患っていてもなお、周囲に迷惑をかけるのを嫌がっていた。しかし、日々体はやせ衰え動かなくなる一方。トイレや入浴、着替えなどの日常動作でさえ、他人の手を借りないといけなくなっていた。
しかしながら、医学的にはBさんの病には打つ手がなかった。病気は悪化する一途だ。
そこで私は、持てる時間でBさんの苦悩を聞き取った後に、こう声をかけた。
「つらいときは自分一人で抱え込まず、周りの人を頼ったらいいんです。自分のペースでできることをして、しんどいときはゆっくり休みましょう。」
後日あらためてお話を伺った際、Bさんは、「先生の言葉にかなり救われました。2時間かけて受診した甲斐がありました。」と言ってくれた。やはり、相当抱え込んでいたのだ。
人へ尽くしたからこそ、困ったときに助けてくれる人がいる
Bさんには助けてくれる人がたくさんいた。もちろん、医療や介護をサービスとして提供する立場の人も含まれるが、そういった立場を超えて寄り添い助けてくれる人がいたのだ。
そして、どの人も口をそろえてこう言った。
「Bさんには色々とお世話になったからね。」
助けてもらえないのは自分のせい?自責はするな
今、困っているのに周りに助けてくれる人がいない、という人もいるだろう。つらい状況をお察しする。
しかし、これまでの自分の行いが悪かったせいだなどと、自分を責めないでほしい。
自分の力でどうにもならないのなら、まずは頼れるものは何でも頼ろう。困ったときは他人に迷惑をかけてもいいのだ。
そして、問題を乗り越えられたのなら、他人に迷惑をかけた分、今度は自分が他人を助けてあげればよい。そうすればきっと、次に困難に出くわしたとき、ともに戦う仲間が増えているに違いない。
与えよ、さらば与えられん
すすんで見ず知らずの人を助けたいと思う人は少ないだろう。自分がお世話になった人にこそ、お礼をしたいと思うものだ。
逆に言えば、困ったときに助けてくれる人がいるということは、それだけ自分が他者の役に立ってきた、ということだ。
誰しも他人に迷惑をかけることをよしとは思わないが、もし、面倒事をお願いしたときにこころよく引き受けてもらえたのならば、素直にその厚意に甘えればよい。なぜなら、その厚意は自分が与えた厚意のお返しだからである。
人生の最期は病気でつらいことも多いが、人から助けてもらえる喜びもある。自分がどれだけ他者に貢献してきたかの答え合わせをする時間、といえるのかもしれない。
最後までお読みいただきありがとうございます。みなさまの人生が彩りあるものになりますように。
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【注意】本記事の内容は個別の症例に基づく個人の意見であり、全ての場合で同様の経過をたどるわけではなく、一般論を示すものでもありません。個々の治療方針については主治医とご相談いただくようお願いします。本記事掲載についてはインタビュイーの同意を得ていますが、個人情報保護の観点から個人を特定するような行為はくれぐれも慎んでください。 また、インタビュイーへの配慮から批判的なコメントは掲載承認できない可能性があります。