刺激的な幸せは色あせやすく、当たり前の幸せは見落とされやすい

あなたは、お金や名誉、権力といったものを追い求めすぎてはいませんか。

自身の健康や、家族の存在といったものを軽視してはいないでしょうか。

実は、多くの人が幸せを追い求めすぎた結果、ある種の罠に陥ってしまっているのです。

みなさん物欲は強い方ですか?

みなさん、ほしいものはありますか?

というか、ほしいものだらけですよね。

今月の給料が入ったら、あれを買おうかな。
次のボーナス入ったら、ちょっと高いけどご褒美にこれ買っちゃおうかな。

ところで、私は基本的に物欲がありません。

なかなか共感してくれる人が見つからないのですが、生活に必要なものがあればあれこれ買いたいとは思いませんし、年1回くらい旅行に行ければ、毎週のようにどこかにお出かけしたいとも思いません。

そんな私を見てか、昔、よく飲みに連れて行ってくれた上級医の先生に、こう言われたことがあります。

お前は達観しすぎだ。もっと若者らしく遊んだ方がいいぞ。

若者の遊びって何だ?
朝まで飲んだりとか、たくさんの異性と付き合ったりとか、高級な洋服とか車を買ったりとか?
別にそういうことをしたいとは思わないな。

当時の私は、なんとなくそう思っていました。

死を覚悟した人が欲するもの=本当の幸せ

医師として働いていると、ご高齢の方と接する機会が多いです。

そして、高齢者の方々と接するなかで、なぜ自分に物欲があまりないのか、その理由が見えてきた気がします。

患者さんの治療を考える上で、必ずその人の生き方を土台として治療方針を決めるため、多くの高齢者の人生や価値観に触れてきました。

私はいつもこう問うようにしています。

病気がよくなったらどんなことをしたいですか?

残りの人生で何を望みますか?

すると、返ってくる答えは大体いつも同じです。

症状がよくなって穏やかに暮らしたい。

家族と慣れ親しんだ家でのんびり過ごしたい。

お世話になった人にお礼が言いたい。

患者さんは皆病気を患っているので、病状がよくなることを望むのは当たり前ではありますが、

一方で、お金持ちになりたいとか、すごい贅沢をしたいとか、業績が一位になりたいとか、そういうことを望む声は聞いたことがありません。

そんな経験を繰り返すうちに、私はこう思いました。

人生が残りわずかとなり、自分の最期が見えてきたとき、人が求めるものは人として本質的な幸福だ。
長い人生で色々な経験をし色々な望みを叶えてきた人が、一周回って最後に欲するものは、
お金や名誉、権力などではなく、健康や豊かな人間関係、他人への感謝の気持ちなのか。

刺激的な幸せは色あせやすい

お金や名誉、権力といったものは、我々に刺激的な幸せをもたらします。

人間は欲深い生き物ですから、自らの欲望に従いそれらを追い求めることは悪いことではなく、むしろ自然なことです。

一方で、こういうものから得られる幸せは色あせやすいのも事実です。

  • 友達より高いバッグを身に着けていれば、自慢できるし優越感にひたれて気分がいいでしょう。しかし、友達が自分より高いバッグを持ち始めたら、あなたはどこか劣等感を感じるようになるでしょう。
  • 家賃が月20万円の家は広くて幸せだと思っていたとしても、その後月40万円の駅近マンションに住むようになれば、始めは幸せだと感じていた家では不便で満足できなくなるのでしょう。
  • 課長に出世して給料や部下が増えていい気持ちになっていても、その後部長になった後に子会社へ出向させられれば、課長より上級の役職に就いていたとしても惨めに思い苦痛を感じるでしょう。

こういった類の幸せで満足を得ている人は、注意が必要です。

刺激的な幸せは他人との比較でもたらされることが多いですが、どこまで行っても「上には上がいる」ので、その結果、満たされ続けようと思うと差し出す対価がどんどん増えていくのです。

そのうち、対価が払えず生活が破綻してしまったり、次に述べる「当たり前の幸せ」を見失ってしまいます。

当たり前の幸せは見落とされやすい

健康や平和、大切な人と共有する時間といった「当たり前の幸せ」は、それらが存在することが当たり前であるがために、しばしば見落とされがちです。

そして、多くの場合、それらを失って初めて人は「当たり前の幸せ」に気づくのです

  • いざ病気になってわかったけど、体にどこも痛いところがなくて思いのままに動くのは、なんてありがたいことだったんだろう。
  • いざ離婚してわかったけど、あいつは何だかんだ家庭のためにがんばってくれていたんだな。
  • いざ戦争が起こってわかったけど、いつミサイルが飛んでくるかわからないと思うと、安心して夜もおちおち眠れないよ。

もし思い当たる節があるのであれば、「当たり前の幸せ」を失う前に、一度立ち止まりそれらを見つめ直してみてください。

今目の前にある「当たり前」に感謝できる人は、多くの人が落っことしている幸せを拾える人です。

案外、自分は幸せ者だ。

そう感じることができれば、世界はもっと美しく見えてくるかもしれません。

幸せを得ようと努力するのは見上げた姿勢ですが、いつ何時も、目の前にある「当たり前の幸せ」を見落とさないようにしたいものです。

そして、刺激的な幸せを追い求めるのはほどほどに。

最後までお読みいただきありがとうございます。みなさまの人生が彩りあるものになりますように。

2 COMMENTS

西村洋子

当たり前の幸せ。

色々と失って初めて実感することが増えてきました。
親、親友がこの世から彼岸に旅立ったこと、
習い事を諸事情で断念したこと、
それまで住んでいた場所、環境から離れたこと、
、、、エンドレスです。

今、ガザ地区の住民は自分の意志とは関係なく危機的状況に置かれている。ウクライナもしかり。
紛争や戦争、又災害などが起きた時、それまでの当たり前の日常生活が如何に幸せであったかを困難辛苦の中で思い知らされる。

今自分は生きていられる。
ただ、それだけでも実は僥倖なのかもしれない。

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るろうに健心

西村様

高級なものでなくてもおいしいご飯が食べられ、ミサイルが飛んで来る心配もなく夜ぐっすり眠られる。
本来それだけでも十分幸せなはずだと思うのです。

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